空から見てみよう

日々感じた事のひとりごと

3周年たった。

私がひとり言を自分の中にためておかず、何かに記録をしていこうと思って始めたこのブログも3年たった。

最近、遠ざかり気味になっていた。

自分の心を見つめていなかったからかもしれない。

 

過去に自分が書いたものを読み返してみると面白い(自画自賛 笑)

こんな私に共感して笑ってくれたり、一緒に哲学的な事を考えてみてくれたりする人がどこかに存在するという事を信じてまた書き続けよう。

今は誰も読む人いないけど(笑)。

 

有難いと言うのは文字通り

よく心理学の本や、精神的な本を読むと感謝する気持ちが大切と書いてある。

何か困難にぶつかって何かヒントが欲しくてこういう本を手あたり次第読んだり、動画を見たりして、頭では理解できるのだが、それを心から理解しているのかは疑問だ。

誰々が何かをしてくれたから、感謝する。

それは誰にでも理解できる。

でも、存在そのものに感謝するというのは実体験した人でしかわからないのではないだろうか。

有る事が難いというのは、ないという事を経験したから理解できるのだ。

とても、辛い経験ではあるが一旦、あるのが当たり前だと思っていた事がないという体験をする事によって、ああ、自分はあんなにもある事が当たり前だと思っていたんだな~、ないという現実を目の前にして、有った物は当たり前ではなかったんだな~と心から理解する。

感謝する事ができるのはそういう経験を積んだからなのだ。

 

なので、むやみに人に感謝しなさいと言ったところで、その人に響かなければあまり意味がない。こればかりは体験するしかないのだ。

形だけは取り入れる事ができる。食べ物に感謝とか。

でも、戦後何も食べるものがなかった人達がなんでも食べますというのと、今現在なんでもあるのが当たり前という人達では感謝の度合いが違うのは当然と言えば当然の事なのだ。

人生の経験の深さと感謝の深さは直結していると私は思う。

 

変な人シリーズ

久々に変な人を見て嬉しかったので忘れないうちに書いておく。

昨日、外出していた時、横断歩道を渡ってふと前方を見上げたら、オフィスで使う椅子で人が座ったまま、結構なスピードで走り去って行ったのが目に入った。

 

私は2度見をした。

あの人、事務用の椅子を改造して車椅子的な?いや、違うな、なんか椅子にそのままモーターをくっつけていたようだった。

よく見てみようと思ったけど、もう走り去った後だったので、残念だった。

多分、違法だとは思うんだけど、危ないし(笑)。

 

何より、椅子がそのまま走ってるっていう姿がシュール(笑)で、それを作ってみようと思ったっていうのがなんかちょっと面白くて、しばらく変な感動をしていた私(笑)。

あ~変な人って貴重だな。

こういう人を見るとワクワクする(笑)。

変な人有難う。また、変な人に会えますように(笑)。

恩返しの人生

人生のゴールがあるとして、私の人生は半分以上は過ぎた。

もう、折り返している。

折り返してみると、今まで見ていた景色と違う事に気付いた。

それまでの人生はただ前をみて進んでいる。たまには横をみたり、立ち止まったり。

でも、自分から見える景色は前の人の背中か、横にいる人達。

後ろを向いて走ってはいない。

だけど、折り返した途端、後ろに走っている人の景色が見えた。

自分の後ろにはこんなにも走っている人たちがいたのか。

自分もなお走り続けてはいるのだが、もう先が見えてきた。

今まで辛かった。自分がこのコースを選んだとは言え、何度もリタイヤしようかと思った。

でも、なんとか歯を食いしばって、走り続けてきたら違う景色が突然目の前に現れた。

自分の後ろを走っている人達を元気付けなければならない。

この人達もなんとかリタイヤせず走り抜いてほしい。

本当に心からそう願う。

後の人生はこの人達を”勇気づける、元気づける”方に力を注ぐのだ。

自分ひとりの人生じゃない。

 

自分では気づかなかったが、自分自身も先を走っている方たちから元気づけられてきたのだ。

そう思うと、涙が出る。

この後の人生はそうやって生きていく。目標が出来た。

シャットダウンする

私は日常生活の中でほんの少しの時間でもいいから、何もかもシャットダウンして自分の中にこもる時間が必要だ。

人が嫌いとかそういうのではなくて、自分の中に戻ろうとする瞬間が必要と言うか。

それも、できるだけ自分ひとりの個室みたいな感じでまわりと区切られていてほしい。

それがないと落ち着かないどころか、なんとなく心身ともに文字通りダウンしてしまう。

静けさが欲しい。

それができると不思議と気力が戻り、やる気が湧いてくる。

なぜなのか理由はわからない。

四六時中人といないと寂しくてたまらないという人もいるらしい。

これは何か遺伝子レベルの、生物としての仕様みたいなものなのかな。

動物でもグループで行動する種類もあれば、単独のものもいたりするし。

 

でも、ひとりが好きって訳でもなく、人とは関わりたいと思う。

 

そこに愛があるから傷つくという事に気付いた

幾度となく、今までの人生で傷ついてきた。何故、自分は人から言われた事や、行動を真剣に受け止めて心から傷ついてしまうのか。

私は良くも悪くも100%受け取る能力があるのかもしれない。

笑って受け流す人は大人だなと思う。人は人、自分は自分と境界線がはっきりしているのだと思う。

自分なら絶対に言わない事や、行動をされると一瞬心が真っ白になってしまう。

ギャップが大きければ大きいほどショックも大きい。

 

それが、もしかしたら、逆に自分の心の奥底にはなにかわからない温かい感情があって、それと真逆な言葉を聞いたり、行動を見たりすると、その心が反応しているからではないかと気付いた。

そこに愛情というものが存在しなければ、非情な事も平気でできるだろう。

それが逆に愛が多ければ多いほど、その反作用で心から傷ついてしまうのだ。

こう言うと自分を美化しているように聞こえるが、そうではなくただ単純にそういう仕組みになっているという気がする。

 

この愛の塊みたいなものがそうでないものを拒否するのだ。

そして、その愛の塊から溢れたひとかけらを人に投げかけた時、相手が拾ってくれると心から嬉しく思う。

中にはそれをあからさまによけたり、打ち返してくる人もいる(投げ返すのとは違う)。

そういう人からは悲しいかな、そっとそばを離れるしかない。

自分の中にある愛に気付いたら、もしかしたら、こんな自分でもこの世の中に少しでも役に立っているのかも知れないなと思える。

そして、温かい言葉や態度、笑顔なども多分人より多く受け取る事のできる私はお得なのかもしれない(笑)。

上に向かう

ふと思った。年を取ると言う事は段々上に向かって行くと言う事ではないか。

ずっと逆に思っていた。というか、思い込まされていた。

          

        

 

もう人生あきらめろみたいな。

でも、よく考えたら若い頃と比べて、今の自分は20年前の自分より経験を積んでいる。

人間として成長してないとおかしくないか?

毎日、毎日同じことを繰り返すのではなく、今日一歩でも成長しようと心に決めて生きれば1年後、2年後、10年後には精神的に成長した自分がいるのではないか。

ただそう決めて生きていけばいいのではないか。

人それぞれ成長する速度はあるだろうが、自分の一歩一歩を進めていく。

その事に気付いたら、じっとしてる暇はない。

残された時間が勿体ない。最近強くそう思う。